健康経営の議論は運動・睡眠・メンタルに集中しがちですが、見落とされやすいのが従業員の経済的ウェルビーイング(お金に対する安心)です。海外研究は、これを「現在の家計のやりくりへのストレス」と「将来の財務的安心」の2側面で捉え、全体的なウェルビーイングと強く関連することを示しています(Netemeyer et al. 2017)。本稿はその知見を、相関と因果を区別して整理します。
経済的ウェルビーイングとは何か——まず概念を整える
「お金の不安」は曖昧に語られがちですが、研究では明確に定義されています。Brüggenら(2017)は、経済的ウェルビーイングを「現在および将来の財務的義務を果たすことができ、財務的な将来に安心を感じ、人生を楽しむための選択ができる状態」と整理しました(Brüggen et al. 2017)。重要なのは、これが「年収がいくらか」という客観的な金額だけの話ではなく、本人がどう感じているか(知覚)を含む概念だという点です。
同論文は、経済的ウェルビーイングを取り巻く研究枠組みを、(1)規定要因——金融行動、金融知識、各種の介入(金融教育など)、(2)帰結——全体的なウェルビーイング、という形で提示しています(Brüggen et al. 2017)。これは概念整理・研究アジェンダを示した論文であり、特定企業での介入効果を測った実験ではない点は踏まえる必要があります。それでも、「お金の安心」を経営課題として扱う際の共通言語を与えてくれます。
経営企画向けの一文
「経済的ウェルビーイングとは、現在・将来の財務義務を果たせ、将来に安心を感じ、人生を楽しむ選択ができる状態を指す(Brüggen et al. 2017、概念整理)。これは年収額そのものではなく、従業員の主観的な安心を含む概念である。」
「現在のやりくり」と「将来の安心」——2つの側面で測る
経済的ウェルビーイングを測るうえで実務的に有用なのが、Netemeyerら(2017)の整理です。同研究は、知覚された経済的ウェルビーイングを大きく2つの側面に分けました(Netemeyer et al. 2017)。
- 現在の家計のやりくりに対するストレス(current money management stress):いま月々の支払いや家計をどれだけ重荷に感じているか。
- 将来の財務的安心(expected future financial security):将来の家計・老後・不測の事態に対してどれだけ安心を感じられるか。
この2側面は別物です。いま家計が苦しくなくても将来に不安を抱える人もいれば、その逆もあります。Netemeyerらの分析は、この知覚された経済的ウェルビーイングが、全体的なウェルビーイング(人生満足・ストレスなどを含む総合的な良好さ)と強く関連することを示しました(Netemeyer et al. 2017)。
ここで因果の解釈には注意が必要です。これは主に関連(相関)を示す知見であり、「経済的ウェルビーイングを上げれば全体的ウェルビーイングが必ずN%上がる」という因果の効果量を保証するものではありません。お金の安心が心身に効くのか、心身の良好さがお金の感じ方を変えるのか、双方向の可能性があります。それでも、家計のストレスと将来不安が従業員の総合的な良好さに深く結びついているという手がかりは、人事にとって無視できません。
2側面で見る実務上の意味
- 現在のやりくりストレスが高い層 → 目先の家計を圧迫する要因(緊急の出費、給与の不透明さ)への手当てが効きうる。
- 将来の安心が低い層 → 長期の資産形成・制度理解の支援(企業年金、福利厚生の周知)が効きうる。
根拠:経済的ウェルビーイングは現在のやりくりストレスと将来の財務的安心の2側面からなり、全体的ウェルビーイングと強く関連する(Netemeyer et al. 2017、観察)。
経済的不安が健康・集中・離職に及ぶ可能性
では、なぜ人事がここに関心を持つべきなのでしょうか。論理は次の通りです。経済的ウェルビーイングは全体的ウェルビーイングと強く関連し(Netemeyer et al. 2017)、全体的ウェルビーイングは心身の健康・仕事への集中・定着とつながる領域です。したがって、家計のストレスや将来不安を抱えた状態は、職場での集中力低下や心身の不調、ひいては離職リスクへと波及しうる、という仮説が立ちます。
ただし、ここで本稿が依拠する4本の論文は、いずれも経済的ウェルビーイングそのものの概念・関連を扱った研究であり、「経済的不安が日本企業の離職率を何ポイント押し上げる」といった効果を直接測定したものではありません。経済的不安と心身・集中・離職の結びつきは、ウェルビーイング研究全体から導かれる合理的な示唆として理解し、過度に断定しないことが重要です。健康経営における他の要因(業務負荷やエンゲージメント)との関係は、従業員ウェルビーイングと企業業績のエビデンス(ピラー記事)も併せて参照してください。
セルフコントロールという個人差——だが「自己責任論」ではない
経済的ウェルビーイングには個人差もあります。Strömbäckら(2017)は、セルフコントロール(自制心)が高い人ほど、良好な財務行動(計画的な支出・貯蓄)をとり、結果として経済的ウェルビーイングが高い傾向にあることを示しました(Strömbäck et al. 2017)。具体的には、自制心の高さが貯蓄行動や不安の少なさと関連していたと報告されています。
ここで誤読を避けたいのは、これを「お金の不安は本人の自制心の問題だから自己責任」と結論づけることです。これは横断的な関連を示す観察研究であり、企業が個人の性格を変えるべきだという話ではありません。むしろ含意は逆方向にあります。良好な財務行動が経済的ウェルビーイングを支えるなら、企業が良い財務行動をとりやすい環境(自動積立の仕組み、わかりやすい制度設計、判断を助ける情報提供)を整えることに意味がある、という設計の問題に翻訳できます。行動を「精神論」で求めるのではなく、行動しやすい仕組みで支える発想です。
金融教育はどう効くのか——「知識」と「行動」を介する経路
企業が打てる施策の一つが金融リテラシー教育です。その効き方を経路として描いたのがShimら(2009)です。同研究は若年層(大学生)を対象に、金融教育・親の影響・本人の財務行動を経て経済的ウェルビーイングに至る経路を概念モデルとして示しました(Shim et al. 2009)。要点は、金融教育が直接ウェルビーイングを生むというより、知識や態度を高め、それが望ましい財務行動につながり、その先にウェルビーイングがある、という段階的な経路を想定している点です。
この知見には2つの留保があります。第一に、対象が若年層であり、中堅・ベテラン社員を多く抱える企業にそのまま一般化できるとは限りません。第二に、これは概念モデルと若年層データに基づく研究であり、社会人向け金融研修の効果を測った介入実験ではありません。それでも、「研修をやれば即ウェルビーイングが上がる」のではなく、知識→行動→安心という経路を設計しないと効きにくいという示唆は、企業の教育設計に直接役立ちます。
企業が取りうる打ち手(研究が示唆する方向)
- 金融リテラシー教育:知識を行動につなげる経路を意識した設計を(Shim et al. 2009、概念モデル/若年層)。
- 行動しやすい福利厚生:自制心に頼りすぎず、自動積立や制度のデフォルト設計で良い財務行動を支える(Strömbäck et al. 2017、観察)。
- 給与制度の透明性:評価・昇給の基準を明確にし、現在のやりくりストレスと将来の不確実性を減らす(Netemeyer et al. 2017の2側面に対応)。
いずれも海外研究に基づく示唆であり、日本の制度・税制・労働慣行への一般化は慎重に行い、効果は自社で検証する前提が必要です。
日本企業の人事・総務・経営企画への含意
以上を実務向けに整理します。
- 「お金の安心」を健康経営の対象に含める:経済的ウェルビーイングは全体的ウェルビーイングと強く関連する(Netemeyer et al. 2017)。運動・睡眠・メンタルだけが健康経営ではない。
- 2側面で従業員を捉える:現在の家計ストレスと将来の安心は別物。打ち手も分けて考える(Netemeyer et al. 2017)。
- 自己責任論に逃げない:自制心は財務行動と関連するが(Strömbäck et al. 2017)、企業の役割は「行動しやすい仕組み」を整えること。
- 教育は経路で設計する:知識→行動→安心の経路を意識する(Shim et al. 2009)。
本稿の知見はいずれも海外を中心とした概念研究・観察研究であり、相関を示すものが中心です。因果や効果量、日本の制度・税制・雇用慣行への適用可能性は、自社のデータでパイロット検証することを前提としてください。健康経営の全体像は健康経営エビデンスのハブにまとめています。
健康への投資を、地域への貢献にもつなげる
従業員の経済的ウェルビーイングを含む健康投資は、採用・定着・生産性の観点で語られることが多いですが、その取り組みを社外への発信・地域貢献とつなげる選択肢もあります。たとえば従業員の暮らしや地域の福祉・教育を支える自治体事業へ寄附する手段として、企業版ふるさと納税(基礎解説)があります。これは寄附額の一部が税制優遇(損金算入に加えた税額控除)の対象となりうる制度で、健康・ウェルビーイングを重視する企業姿勢を、地域のウェルビーイング向上への貢献として外部にも示す一つの方法です。自社に合う寄附先や活用イメージはAI診断で簡単に確認できます(制度の詳細・適用可否は必ず税理士等の専門家に確認してください)。
Q. 経済的ウェルビーイングとは何ですか?
A. Brüggenら(2017)は、現在および将来の財務的義務を果たせ、財務的な将来に安心を感じ、人生を楽しむ選択ができる状態として整理しています(Brüggen et al. 2017)。Netemeyerら(2017)は知覚面を「現在の家計のやりくりへのストレス」と「将来の財務的安心」の2側面で捉えました(Netemeyer et al. 2017)。年収額そのものではなく主観的な安心を含む概念です。
Q. 経済的不安は従業員の健康やパフォーマンスに影響しますか?
A. Netemeyerら(2017)は、知覚された経済的ウェルビーイングが全体的ウェルビーイングと強く関連することを示しました(Netemeyer et al. 2017)。これは相関関係であり、海外の研究知見です。経済的不安が心身の健康や集中・離職に及ぶ可能性は示唆されますが、因果や日本での効果量は自社で検証する前提が必要です。
Q. 企業は従業員の経済的ウェルビーイングに何ができますか?
A. 研究が示唆する方向は、金融リテラシー教育、福利厚生の設計、給与制度の透明化です。Shimら(2009)は金融教育が知識と行動を介してウェルビーイングに至る経路を示し(Shim et al. 2009)、Strömbäckら(2017)はセルフコントロールが良好な財務行動と関連することを示しています(Strömbäck et al. 2017)。いずれも海外研究であり、効果は自社検証が前提です。